2008年07月31日
雨との戦い

先日の金沢や富山・南砺市の豪雨による災害のニュースを見て、
思い出されるのは4年前の飛騨地区の大雨災害です。
他地域の方が被害の規模が大きくなり、東京の報道がそちらに偏ったため
関東ではその詳細がほとんど紹介されず、知らない人も多い(!!)んですよ。
画像は広報たかやまバックナンバーからお借り致しました。
この時にも随分クローズアップされましたが、崩壊した岡本橋のある苔川、
#他地域の方へ・・・読みは「すのりがわ」。昔、この流域で川海苔が採れた事に由来します。
昔は曲がりくねった「暴れ川」のひとつで、山間から高山盆地へ直接開けているために
大雨の時には数々の災害を引き起こした為、既に第二次世界大戦前には高山市市街地部分の
河川改修を行い、流路をまっすぐに付け替えています。ただ、以前の流路部分は地盤ももろく
流量が多くなった場合は、この部分からやられやすい、と言われています。

この航空写真は、終戦後米軍の撮った国土地理院所蔵のものの一部ですが、この時点では
曲がりくねっていた部分の跡が、まだ何箇所か見受けられます。(赤線で示してみました)
横切っている二本の道、上は右に見える高山駅北側の、国分寺通りから線路をくぐって出てくる道で
下が国道158号線、その真ん中あたり、今の川よりも東(右)側を流れていた部分の橋が岡本橋。
岡本橋の部分は、右岸(南小学校側)部分がそうとう曲がって流れていた事が見て取れます。
実際に水害前のここは、掘り下げたように道路から低くなった畑地になっていました。
改修から数十年、川海苔は絶滅してもまっすぐに改修した成果は出ていたのですが、
想定外の大雨が、図らずも弱い部分に集中してしまいました。しかしこの部分の補強は
かなり行ったようなので、今後は大丈夫だと思います。
それにしても、今の41号線バイパスって、戦後すぐにはもう結構な部分が出来ていたんですね。
全線開通したのが、確か昭和40年代の真ん中頃でしたか。
今は天満神社から国分寺の横を通り、松本橋に抜ける道が41号線であったことを
覚えている人も少なくなってきています。
山国の飛騨では、大雨による鉄砲水と、河川氾濫による崩壊が自然災害としては最も多く、
この神通川水系砂防事務所の年表からも、それはうかがえます。
2008年07月27日
あの頃の夏

夏本番の東京、昨日はテレビなどでも紹介される「隅田川花火大会」が催されましたが、
なにせ街中の大会、60万人とも言われるその混み様はハンパじゃありません。
まだ小さな子どものいる我が家は、同日に開催される「立川 昭和記念公園花火大会」へ。
こちらは広い国営公園で行われるのと、多摩の野原の真っ只中、少し離れても良く見えるためです。
近くに住む友人を誘い、程近いショッピングセンターの屋上で(ここにもたくさんの人たちが見物に)
花火を堪能してきました。
階下に降りて一息ついていると、携帯に高山の同級生から着信履歴が。
メールじゃなく電話は珍しいので、子どもがじゃれつくのを捌きながら、
何だろう?お盆の飲み会の話かな?と思って電話してみると・・・
昨年から体調を崩していた仲の良かった高校時代のクラスメイトが、今日亡くなった、と。
花火大会の帰途、高速を運転していると、改めてその悲しみが深まっていきました。
3年ほど前、帰郷の際に飲み会のお誘いに来てくれた彼。その時も久しぶりの再会でしたが
高校時代とちっとも変わらぬその温厚な人格は、酔いを一層良い気分にさせてくれました。
「高校時代はあれでこれで」「いや、あんなこともこんなことも」若く熱かった、昔の話は尽きぬもの。
「また今度、帰ってきたら一緒に飲もうな」 それが最後の再会になりました。
あまりに早すぎる、駆け足の人生を歩んでいってしまった彼の突然の訃報。
今年のお盆の帰省は、すこし淋しいものになりそうです。
この歌は女性から男性への歌ですが、今回は故人を偲び、歌詞を掲載させて頂きます。
君といた夏は 遠い夢の中
空に消えてった 打ち上げ花火
by ジッタリン・ジン
2008年07月24日
トンネル効果

全線開通日に書いた「日本一のパーキングエリア?」ですが
そこに設置されたETCスマートICの利用結果がこちらの記事。
降りてから古川の街並みまで、あの道を通るのかよといったインフラ未整備状態なのに
事前の予想が甘すぎますよ、ということもありますが、富山方面しか利用できないという形態、
二輪車の利用不可など「余計なお世話的制限の多さ」のためでもあります。
飛騨の観光資源は、北アルプスと奥飛騨温泉、高山市街に、ええとあと古川?としか未だに思ってない
(特に地元一筋の)お方が多すぎます。
例えば今は、「花」や「自然」で日帰り客を呼び込もうとする自治体が大変多いのですが
飛騨では地元民が見慣れているせいか?そういうことをちっともやりません。
こういう特産品をもっと活かせばいいのに・・・房総の花摘み体験なんて東京では人気のツアー。
今までは、交通の便の悪さがかえって幸いし、外部から来る場合必ず宿泊場所を必要としたために、
それが可能な場所だけがお客様を呼び込めました。しかし、これからは違います。
しかしこれからは「トンネル効果」が出てきます。奥飛騨温泉郷は、安房トンネルのトンネル効果で
それを十分(プラスの方向で)味わいましたが、今度はマイナスに働く部分も出てきます。
例えばこちらの記事、「氷見の海鮮館、入場者急増」
既に金沢から能登半島は、飛騨から日帰り圏に入りました。
例えば和倉温泉に泊まり、日帰りで白川郷>高山>金沢と回って戻ってくる。こんなツアーが組めます。
何も白川郷や高山に泊まる必要はありません。和倉温泉のグレードの高さは、飛騨の人なら
大抵知っているはずです。
白川郷などは、モロに「日帰り・チョイ見スポット」になるのです。それは高山にも影響し、
古川などには相当な影響を及ぼすでしょう。
今後は、日帰りで楽しめるスポットや施設の充実も必要になるでしょう。泊まっていただけないのなら
そういう場所で、いかにお金を使っていただけるかを考えなければならないと思います。
高山の古い街並みなどは、まだ大丈夫だと思いますが・・・
飛騨河合スマートICも、地域なんたらだけの理由ではなくて、
名古屋圏からのお客様に来て頂けるようなことをして、アピールをした上で、
早く名古屋方面からの出入りを可能にした方がいいですよ~~~
折角あのすごい猪臥山トンネル掘ったのに、相変わらずトンネル出てから古川の町まで
ひっどい道だし・・・今時の都会人はナビや地図にグネグネ道があると敬遠するんですよ。
2008年07月20日
夏の日の1994
オイオイ、そりゃ「夏の日の1993」よ?<コレ
1993年の夏は「冷夏」でした。特に東北の
コメが不作で、飛騨でも相当な不作の年、
「タイ米」が有名になったのはこの年です。
翌1994年は一転、観測史上にも名を残す
猛烈な暑さが日本を覆いました。
以前もこのブログで紹介した、
「高山市の測候記録ベストテン」
見てみましょう。
高山市の観測最高気温
1位 37.3℃ (1994/8/8)
2位 37.2℃ (1994/8/16)
3位 37.1℃ (2001/8/2)
4位 37.0℃ (1994/8/7)
5位 36.8℃ (1994/8/15)
この年の、尋常ではない暑さが分かると思います。「地球温暖化」の話は、この頃に
相当言われるようになってきましたね。
私は既に都内で仕事をしており、この年はお盆の混雑を避け前の週に帰省しましたが、
東京と変わらない、この暑さには閉口した想い出があります。
今年も梅雨が明け、昨日は東京・練馬で35.6℃を記録しました。
今年はお盆に帰省する予定ですが、さて今年の高山は暑いのか・・・
今日の岐阜県のアメダスを見ると、13時現在で大垣35.8℃、多治見35.3℃。
高山でも31.5℃になってます。
2008年07月14日
青春の飛騨高山

来る7月19日は、「幕末三舟」のひとり、山岡鉄舟の命日です。
明治21(1888)年没ですから、今年は没後120周年にあたります。
最近はNHK大河ドラマ「篤姫」の影響もあり、「幕末」はちょっとしたブーム。
その中では、割と地味な・・・名前だけは知ってるけど、勝海舟や坂本龍馬、西郷隆盛のような
華々しい人とは違い、何をした人かわからない、という方が多いのではないでしょうか。
実はこの人、「飛騨高山育ち」です。本姓は「小野」、父親は小野朝右衛門高福といい、
弘化2(1945)年から嘉永5(1852)年まで飛騨郡代を勤めた人物です。彼は出世した高齢の父親
(彼が生まれた時、既に父親は60歳を過ぎていた)の四男坊として今の高山陣屋に移り住んでいました。
天保7(1936)年生まれなので、今で言う9歳から17歳、最も物事を吸収する時期を過ごしています。
もちろん「お代官様のお坊ちゃま」、書道・剣道・禅学など、当時の高級武士の身に付けるべき教養は
全て「個人家庭教師つき」で叩き込まれました。書道は当時日本でも指折りの書家として有名だった
三之町出身の(当時の高山の文化水準の高さは、相当なものでした)岩佐一亭に学び、
剣については、何と江戸から北辰一刀流の講師を招いて(お代官!)修行に励んだほどです。
鉄舟といえば「剣・禅・書」の達人として今も名高いのですが、高山時代にしっかり勉強した事が
非常に活きていますね。親の威光を笠に威張り散らすようなこともなく、それどころか高山時代の
わずか満十四歳にして「修身二十則」という言行集を作っています。以下の通り。
一, 嘘を言うべからず
一, 君の御恩忘れるべからず
一, 父母の御恩忘れるべからず
一, 師の御恩忘れるべからず
一, 人の御恩忘れるべからず
一, 神仏ならびに長者を粗末にすべからず
一, 幼者を侮るべからず
一, 己に心よからず事 他人に求めるべからず
一, 腹をたつるは道にあらず
一, 何事も不幸を喜ぶべからず
一, 力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし
一, 他を顧して自分の善ばかりするべからず
一, 食する度に農業の艱難をおもうべし 草木土石にても粗末にすべからず
一, 殊更に着物を飾りあるいはうわべをつくろうものは心濁りあるものと心得べし
一, 礼儀をみだるべからず
一, 何時何人に接するも客人に接するよう心得べし
一, 己の知らざることは何人にてもならうべし
一, 名利のため学問技芸すべからず
一, 人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず
一, 己の善行を誇り人に知らしむべからず すべて我心に努むるべし
ね?お坊ちゃまとは思えないでしょ?二十一世紀になって、ますますこの通りだと思っちゃいます。
彼は母の方針で、町人の通う寺子屋に行って、町の子どもに混じって勉強をしていたそうです。
お母様の教育も、素晴らしいですね。
その後父が亡くなり飛騨郡代の職を解かれ、彼は四男坊で実家も継げませんから、
山岡家に婿養子に入り、かなりの貧乏生活を味わっています。その後次第に頭角を現わしていきますが
お坊ちゃまとどん底生活を両方味わっていることも、彼の肝っ玉形成には良かったのかもしれません。
彼の生き方には、私が臨済宗に親しんだこともあり、非常に共感を覚えます。
彼についての資料サイトは、こちらとかこちらなんかが詳しいですね。
彼の墓は、亡くなった東京に有りますが、彼の父母は高山で亡くなった為、高山の宗猷寺に
現存しています。宗猷寺へ行けば教えて頂けますよ。
160年前の飛騨高山で、彼は何を見て、何を聞いて育っていったのでしょうね。
今、高山陣屋の前には、若き日の彼を模した銅像が建立されています。
2008年07月05日
日本一??のパーキングエリア

今日、東海北陸道の最後の難関、白川郷<>飛騨清見間が開通!
NEXCO中日本 清見工事事務所
さんのブログから写真をお借りしました。
早速、開通後の記事も写真入で紹介されてます、見てくださいね。
大変な難工事区間だったようで、工事に携わった皆さん、感無量ではないでしょうか。
さて、お借りした写真は、「飛騨河合PA」の全容です。
中日本エクシスの写真では、至って普通のPA・・という感じですが
実はこんな場所にあります。
大きな地図で見る
この周りには、家一軒ありません。ここは昔「明ヶ瀬」という集落でしたが、下小鳥ダム建設に伴い
廃村となった場所です。飛騨の中でも指折りの山奥で、渓流釣りか山菜取りでもなければ
飛騨の人ですらほとんど行く機会のない、おそらく「日本一の山奥パーキングエリア」ですね。
しかも名だたる豪雪地帯の、山の真っ只中に位置するため、営業は10月末まで。
つまり「冬季休業」のパーキングエリアなのです、これまた珍しい。
東海北陸道が、中央道に成り代わり「日本一高い場所を走る高速道路」になったことは
結構知られています(六厩のあたりに看板出てますよね)が、
またもや飛騨に「日本一」が出来たか、な?
JARTIC(日本道路交通情報センター)サイトでも表示されてます。




